右剰余類

まだ火曜日なんですか。
正直週末気分です、疲れてます。


まぁ充実していると言えば充実しているのか。


豊かさと貧しさというテーマで講義があった。
オムニバス形式の現代技術社会論である。
真の貧しさ、現実の貧しさなんてのは、例えば一般的な日本人には想像すらつかない。
テレビに映るのも、おそらく貧しい中でもまだ救いのある人達じゃないだろうか。
逆に本当に貧しい人達は真の豊かさ、現実の豊かさを想像出来ないんじゃないだろうか。
今日見たテレビの中で興味深い言葉を使った人がいた。
エチオピアのとある民族の人なのだが、「一日中生きるために働いて生きていることに誇りを持っている」と。
一語一句同じとはいかないが、大体こんな内容だった。
それは何の飾りもない、心からの一言だっただろう。
現代の一般的な(日本のような)社会では、生きる糧を得るための資金を得るために働く、その時間以外に自分のために何かをする時間を持てることが豊かさの一つの指標となる。
しかしこの指標はこの言葉を使ったその人には全く意味をなさないものだ。
働く以外の時間があり、その時間で自分のため、俗に言う自己実現ために何かをするということをおそらく知らない。
知らないからには、別に自己実現のための時間がなくても貧しいとは感じない。
それどころか誇りを感じることが出来ている。
日本人としての(おそらく一般的な)価値基準から見れば、一日中生きるために働くしか出来ないのは貧しいと考えられるのだろうが、当人達からすればそんなことはない。
今日の講義でも出てきたが、まさに「等身大」であることは何より重要なんではないかと思う。
途上国への援助も、ただお金を渡すだけでなく、現地のレベルから徐々に先進国と言われる国々のレベルまで歩んでいけるように手伝うということが必要なんじゃないだろうか。
世界政治の観点から見ればODAの額で上位に名を連ねるのは体面のために必要なことかもしれないが、外面ばかり気にしていてもしょうがないんじゃないか。
仮にも自由主義、国際調和を掲げた憲法を持つ国ならば、等身大の援助、ただお金を渡すだけではない援助をするべきなんじゃないのか。


そんな風に考えさせられた講義だった。



貧しい人をテーマにしたテレビを見て可哀想と思うのは自己満足でしかない。
本当に不平等をなくしたいのなら、何でも良いから何かをするべきだ。
ただ、自分がこうやって日記に書いているのもまた自己満足でしかないというのは少し悲しい。



力学系入門は6人から4人に減ってしまっていた。
まぁそれならそれで構わないし、当初の予定通り次回からまた6人になっても構わない。
とりあえず、あのメンバーで数学の自主ゼミを開きたいなんて願望を持った。



線形代数は未だに行列のぎの字も出てこないけど、代数学入門的な授業として見ればなかなか面白い。
やはり解析学より代数学の方が馬が合うのか。
幾何学はまだ何とも言えないけれど。



ゼミの帰り、3人のうち1人が京阪だったので途中まで一緒に帰った。
今のところ数学かあるいは物理志望らしい。
やはり数学での就職はかなり厳しそうだというのは誰しも持つようで。
教員免許を是非取得せねば。