レインツリーの国/有川浩

レインツリーの国 (新潮文庫)

レインツリーの国 (新潮文庫)

こたつの横に置いてあって、吸い寄せられるように手が伸びた。


読み始めてすぐに、一人のひとを思い出した。
なんとなく縁があって、近づいて、正と負と、どちらが先であったろうか。
初めて人に寄りかかることを覚えたすぐ後で、投げやりにも近いくらいに、思った言葉をそのまま出した。
肩の力が抜けて、初めて感じる軽さだった。
なんとなく負を感じて、それが少しずつ大きくなって、少しずつ正が生まれた。
距離が近づいて、近づいて、いつの間にかほとんど感じられなくなって。
いつの間にか言葉を抑えるようになって。
抑えられた言葉は現れないまま、少しずつ太くなった糸が突然に切れた。
いつからか好きで、なんとなく好きで、何がどうなのか、今も言葉では説明できない。
とても長い時間が経ったように感じるけれど、今もあの時のままとは言えないけれど、また糸がつながることを願っている気持ちは、少なくとも0じゃない。
空気が好きだった。


ネットで思い出の本の感想を読んで、その書き手にメールを送らないではいられなくなって出されたメールから始まる恋愛。
インターネットを欠いた生活が想像できないような今、ほとんど使わない人も未だいるだろうけれど、特に珍しいことでもないと思う。
文章を公開することが普及してきて、同じ感性を持つ人、興味を持てる言葉を使う人、そういう人を見つけることが容易になった。
文章に惹かれるうちに、どうしても書き手に会いたくなる。
書き手が人と会うことを避けたがるハンデやトラウマを持っていることも多くなる。


耳が聞こえないということ、親に忘れられるということ、それがどういうことなのか、想像できるような気がしても、それは知らない立場からの想像。
実際にその境遇に立たされている人から見れば、まったく浅はかな想像なのだろう。
小説の登場人物、特に主人公クラスとして扱われれば、そのハンデに対する認識を深めやすいと思う。


つい1年くらい前にようやく見つけた自分の一つの答えが、ここには書いてあった。
仲直りをするために喧嘩をするということ。
違う人同士が100%理解することはできない、その制約がある中でも、何%なら理解ができるだろうか。
1%でも多く理解するためには、やはり思っていることをぶつけあわないといけないように思う。
争いたくない、その気持ちはなかなか捨てられないけれど、より近づきたいのなら、ぶつかりあう、ぶつけあうことが必要なんじゃないだろうか。
何も言わないで分かってもらいたい、というのは永遠の理想で、やはり言わないと伝わらない。
言い合う喧嘩をしなくなって、もうかなり長い気がする。
すさんでる。