パートナーの存在

そもそもパートナーは何のために存在するのだろう。
一緒にいたいと思うのは何故だろう。
この文章において、「パートナー」は「恋人」と言い換えるのが適切かもしれない。




快楽を共にしたいのか。
苦痛を共に乗り越えたいのか。
互いに高め合いたいのか。



一緒にいることで幸せを感じるということは、一緒にいることに対して満足しているということ。
何もせずただそばにいることに対して満足するのだとすれば、相手に存在の拠り所を求めているからか。
それとも一人ではないことの実感につながるからか。
存在の根拠の付与と孤独からの解放は、どちらも人の心を満たすものであるのだろう。


話すことで幸せを感じるということは、会話の存在に満足しているか、あるいは通心することに満足しているか。
会話をするためには相手が必要で、その相手の変わらぬ存在に満足するのか。
それとも思いの全てを、考えの全てを話し合い、相手に理解され、相手を理解することに満足するのだろうか。


相手に触れることで満足するのは、やはりそこに誰かがいるという確認だからか。
孤独からの解放。


辛い時に誰かがそばにいてくれるだけで、それだけでも満足することはできる。
自分のことを案じてくれる存在が確かにそこにあるから。
少しでも、気のせいだとしても、辛さを背負うのが一人ではなくなるから。


互いの存在が互いを高め合うことは、その他の要因以上に満足することができるのではないか。


このうちどれも、パートナーでなくとも満たすことのできるものだと思う。
にもかかわらずパートナーを必要と感じるのは何故か。
あるいは、これら全てを一人の人間が満たすならばその人物がパートナーであるということになるのか。




性交渉の存在が問題なのか。
快楽の追求、子孫を残すことへの欲求。
これについては二通りの考え方があるようで、一つはパートナーでなければ許せないという考え方、もう一つはパートナーである必要はないという考え方。
特に前者について、パートナーである必要はないという考え方は後者よりも顕著であるのではないか。
売春の存在、性犯罪の存在、または風俗店の存在。
二つ目の考え方では、この要因についてパートナーは必要となりえない。
また一つ目の考え方について、その快楽を求めるためだけにパートナーを求めるのだろうか。
おそらく一つ目の考え方の場合は、このためだけに求めるようなことはないのではないか。




あるいは、ステータスとして求めているだけなのだろうか。
容姿端麗なパートナーがいるということは、周囲に対する優越感の根拠となる。
同様に頭脳明晰なパートナーも、特定の範囲内での優越感をもたらす。
あるいはパートナーが存在すること自体が優越感につながるかもしれない。




一体どうしてその存在を必要とするのか。
人間が分からない。
自分が、分からない。


この問いに対して、明確なとまではいかなくとも、それなりの答えを用意出来ないうちは、そこには後悔しか存在しえない。
快楽に溺れ、野獣と化す。
頭はおかしくなり、何が正しいのか、何が間違っているのか、自分が求めていたものがどちらなのか分からなくなる。
自分なりの答えを、よく考えた上での答えを、何が起きても揺るがない答えを
それがここに書いたことに反するものであったとしても
必ず用意しなくてはならない。



その必要性に気付くために、どれだけのものを失っただろう。
どれだけの人を傷つけ、あるいは不快にさせただろう。
それを忘れてはいけない。
忘れることがあっても思い出さなければならない。
ならばこそ、そこがどこであろうと書き記さなければならない。
記録、記憶は残しておかなければならない。
可能な限りの数を。



その時は間際でも良い。
生きているうちにはきっと見つける。
それが用意出来ないうちは死ぬことも出来ない。