哲学

最適な対象があるのだから
哲学するのには事欠かない
そんなことを考えていた
数学をするのには紙と鉛筆があれば良いと言うけれど
哲学をするなら何も必要ないんじゃないか


自己の観察
原初はそれじゃなかったのだろうか
歪で軸がなく
それが何を思い
何をするのか


問題は
人間はと始まる文章を書いても良いのだろうかと言うこと
この世界は自分によって認識された上で脳内で再構成され
それから影響を受ける思考その思考が出す結論はあくまで再構成された世界でのみ有効であり
他の個の構成しうる世界に当てはまるかどうかの保証はどこにもない
かといって完全に違うかといえばそうとも言い切れないのではないかと思う
一人でいるわけでなく家族だけだとしても日々他の存在を認識する自己を観察する自分
そこから出される結論には
要因として自己だけでなく他の存在も含まれるのだから
あくまで他の存在のうちの観測しうる領域のみが影響するのだから
結局自分の内で完結するのだろうか



問題がどうなろうと
思考を綴ることに変わりはない
その行動自体に意味がないのだから
あくまで自己満足
全てを取り去った後に何が残るか
全てを吐き出した後に何が残るか
この存在はどこまで他の存在の目を意識し
どこまで意識したことに影響され変わるのか
興味があるのはそれだけな気がする


きっと時間がたてばそれすら忘れ
また違うことそれのみに興味がうつるのだろう